- 期間
- 2014年3月15日(土)〜2014年3月19日(水)
- 用務地
- トルコ共和国
- 用務先
- イズミル、シャンルウルファ、イスタンブル(スレイマーン・シャー大学)
- 目的・成果
- 私にとって3度目のトルコ訪問となる今回の出張では、日本からイスタンブルを経て、まずイズミルで1泊、翌日の夕方にはイスタンブルへ戻って一泊し、シリア国境に近いシャンルウルファへ飛んで、2泊をし、そのままシャンルウルファからイスタンブル経由で帰国するという、短期間に東奔西走をした出張であった。薄紅色の果樹の花が開きかけた早春のイズミルから、まだ冬枯れのピスタチオの農園が広がるハッラーンまで、広大なトルコを東西に駆け抜けた旅となった。同行して頂いたのは、日本トルコ文化交流会の広報担当、エブル・イスピル博士(出張期間は3月23日まで)と、本科研の分担者、岩崎真紀先生(筑波大学、出張期間は3月29日まで)である。できれば、本報告は、岩崎真紀先生の出張報告と合わせて、ご覧いただきたい。
1、ハッラーン
シャンルウルファの町から車で1時間ほどの距離にあるハッラーンは、アブラハムに因む場所として、ヘブライ語聖書でカランとして触れられている(創世記11章31〜32節)古代都市の遺跡である。アブラハムがまだアブラムと名乗っていた頃、神の指示に従って、カナーンへ向かうために、一族を率いてカルデアのウルを出たのち、一時期、住んでいた町である。しかし、この町が世界文明史において、非常に重要な役割を果たした町であることは、あまり知られていない。
今回、初めて訪れてみると、ハッラーンの遺跡には「世界最古の大学」という看板が建てられていた。大学として世界最古に当たるかどうかの判断は難しいが、紀元前387年頃にプラトンが創設したギリシアのアカデミヤを引き継いで、古代ギリシアの文献を現在に伝える役割を果たしたのが、このハッラーンとジュンディーシャープール(現在のイラン西部)の学問所であった。
ビザンティン皇帝ユスティニアヌスは529年に、ギリシアの学問が多神教時代のものであるとして、アカデミヤを閉鎖したが、ハッラーンでは431年のエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派キリスト教徒が中心となって、ギリシアの哲学書や科学書がまずシリア語に翻訳された。ネストリウス派のキリスト教徒は、当時、シリア語を用いていたからである。このシリア語訳のギリシア文献が、アッバース朝期になると、カリフの命令でバグダードへ移され、「知恵の館」の大翻訳事業へと繋がった。やがてイスラーム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒たちとの共同作業によって、ほとんどすべてのギリシア語文献が、直接アラビア語に翻訳されるという一大翻訳事業が展開された。
その結果、アッバース朝の都、バグダードを中心に、哲学、数学、医学、薬学、化学、天文学などの現代の科学技術につながる輝かしいイスラーム文明が発展したのである。そういう意味では、世界の文明史においてハッラーンの町が果たした役割は、非常に大きいが、いまでは荒れ果てた数本の柱や小さいアーチなどが残るのみで、世界の秘境の一つとなっている。
実は当初、旅行行程表に「ハラン村見学」とあるのを見たときには、私が長年、訪れたいと願っていたあのハッラーン遺跡であるとは、思いつかなかった。それだけに、今回の旅では、イスラーム思想史を研究する私には、実に感慨深い、嬉しい訪問となった。
ネストリウス派を異端と決定したエフェソス公会議の跡地も、トルコの地中海沿岸、イズミルの郊外に残っている。今回、古代ローマ遺跡を中心としたエフェソスも訪問したが、残念ながら、公会議跡地は遺跡群から離れていて、そこまでは行くことができなかった。
シャンルウルファの町からハッラーンへ向かう途中で、シリア難民を収容している国連施設の巨大なテントが、はるか遠くに霞んでみえた。この難民施設でも、「キムセヨクム」などのトルコの慈善団体が、難民救済活動を展開している。
2、預言者たちの足跡
シャンルウルファの町には、アブラハムとヨブという2人の重要な預言者に因む場所があった。ヘブライ語聖書のヨブ記には、正義の人であるヨブが神の激しい試練を受けながらも、神を信じ続ける姿が描かれているが、体中にできた「できもの」を泉の水で洗うと治癒した、という記述はない。しかし、クルアーン38章41〜42節には、アイユーブ(ヨブ)が神の言葉に従って、足で地面を踏むと清らかな水が湧き出てきて、その水で体を洗うとたちまち「できもの」は治癒したと記述されている。その泉の場所がシャンルウルファの町の地下にあるヨブの泉であり、今日まで聖なる水が湧き出ている、と信じられている。
アブラハムが生まれたとされる青い湖と、敵に火をかけられたが、神が炎を水に替えたという故事(クルアーン21章68〜69節)にちなむ聖なる川、それらを取り込むように立つ壮大な聖アブラハム・モスクは、ウルファ城の遺跡が立つ丘のふもとに見られる。
ヘブライ語聖書によれば、アブラハムはシヌアルという土地で父テラから生まれた、と記載されている。ハッラーンはアブラハム一族にゆかりがある土地であるとされるが、彼がウルファで生まれたという記述は、聖書にもクルアーンにも見られない。しかし、土地の人々は、彼が迫害を避けて青い湖の洞窟内で生まれたと信じている。私達が訪ねたときも、青い湖の洞窟には、多くの敬虔な人々が、長時間、座り込んで祈りを捧げていた。
聖アブラハム・モスクの一角に、サイード・ヌルスィー(1876-1960)の墓地の跡が、壁に掲げられた墓碑銘とともに、そのままに残されていた。ヌルスィーはトルコ近代の高名な神秘主義思想家である。彼の墓は他所へ移されたが、今日でも格子戸の外から敬意の眼差しを向ける人が多い。
さらにシャンルウルファでは、市内にある「無料塾」を訪問した。これはヒズメット運動の活動のひとつであるが、十分な教育を受けられない家庭の子女に無料で良質な教育を施すボランティアの施設であり、家族の宗教や母語(トルコ東部にはアラビア語やクルド語を話す部族や、ギリシア正教やアルメニア正教のキリスト教徒も住んでいる)にかかわらず、多くの子供たちを受け入れている。ここでは、使命感をもって教育活動を続ける女性たちの姿に感銘を受けた。貧しい家庭の子供たちも、良質な教育を受けることで生活力を身につけることができ、戦闘的な集団の誘いに乗らないでも、生きていくことができるようになるからである。
生徒の中にアラビア語を母語として話す家庭の少女もいて、訪れた私達に可愛い声で歓迎の歌を唄ってくれた。アブラハムとヨブという預言者に因む民間信仰が生きている町では、率先してボランティア活動を行う人びとの献身的な姿が強く印象に残った。
3、スレイマーン・シャー大学で
イスタンブル郊外に3年前に開校したスレイマーン・シャー大学では、以前から会いたいと願っていた人文社会学部長のアドナン・アスラン教授に会うことができた。アスラン教授の学位論文をもとにして出版されたReligious Pluralism in Christian and Islamic Philosophy(Curzon Press, 1998)に大きな感銘を受けた私は、いくつかの論文でそれを紹介した。今回、そのひとつで、共著の『宗教多元主義を学ぶ人のために』(世界思想社)を先生にプレゼントした。日本語であるが、アスラン先生の著作を紹介している注の箇所に付箋をつけて渡すと、アスラン先生は顔を赤らめて恥ずかしそうに「遠い日本の研究者が私の本を読んでくれて、研究に使ってくれていたなんて」と喜んでくださった。
私の講演は、大学にとっては急な手配となったようであるが、午後4時から1時間、という約束で、”New Challenge of Interfaith Dialogue with Islam in Japanese Religious Environment” を発表させて頂いた。思いがけず60名以上もの学生と教員が参加して下さった。ほとんどの日本人は本人が気づかないうちに、仏教・神道に所属しており、自主的に参加している宗教を加えると、一人が2つ以上の宗教団体に登録されている、と話すと、会場から驚きの声が上がった。講演後に何人かの人から、複数の宗教に所属していることについて質問があり、日本の「宗教に無関心な」宗教環境について理解が難しいという印象をうけた。
その後、日本トルコ文化交流会のエブル・イスピルさんから、トルコ国民の身分証明書には必ず、自分が所属する宗教名が1つだけ記載されており、この身分証明書は肌身離さず、身につけていなければならないのだと、聞かされた。トルコの人々にとっては、複数の宗教名をどのように記載するのかという点と、イスラーム以外の信仰を持つことが禁じられているムスリムにとっては、複数の宗教に参加するということは、宗教法に触れる大犯罪であるという点に、戸惑いがあったのである。
トルコ共和国は成立以降、世俗主義を国是としている。従って、世俗主義の社会であっても、人々が自己の所属する宗教名を記載した身分証明書を携行しなければならないとは、私は、うかつにも気づかなかった。私の講演を聞いたトルコの学生や教員たちが、非常に驚いた顔をしていたのも、きちんとした理由があったのである。
トルコ社会が、世俗主義を国是としながらも、国民の宗教所属を固定化している点において、実質的には宗教社会であることを示している。それゆえに、現在のトルコで、穏健で普遍的な宗教回帰の現象が生じていることが理解できる。トルコ社会につちえ、またひとつ、新しい視点を学ばせて頂いた、よい機会となった。
4、家庭訪問
今回の短いトルコ滞在中に、イズミルとシャンルウルファの2都市で、ヒズメット運動に賛同している一般の家庭を訪れる機会を与えていただいた。トルコ地方選挙戦の最中であり、街中に旗飾りやプラカードが溢れている騒々しい中で、見ず知らずの私達を、二つの家族は暖かく迎えてくださった。
トルコでは、決して裕福とはいえない、中流程度の家庭であると説明されたが、フラットの広さ、家具の質の良さ、子供たちの教育レベルの高さ、そして、なによりも心のこもった持て成しに感激した訪問となった。こうしたボランティア活動に熱心な、ごく普通の家庭がヒズメット運動を底支えしていることが、よく理解できる訪問となった。
イズミルの家庭では、長男が日本の高知大学を卒業し、現在はイズミルの日系企業で働いていることで、久しぶりに日本語で話せると、とても喜んでくれた。しかし、両親や兄弟たちは、日本語も英語もできず、その長男とエブルさんの通訳で意思を通じあった。
言葉の問題は、シャンルウルファの家庭でも同じことで、二組の家族が集まってくださり、心づくしの夕食を頂戴したが、直接、意志を通じあうことができず、こちらでもエブルさんの通訳のお世話になった。
トルコ語ができない私には、言葉を通して直接に通じ合うことはできなかったが、世俗主義を国是とするトルコ共和国にあって、穏やかな宗教回帰を感じさせてくれる篤信家の人々に出会え、「旅人には親切に」というイスラームの精神が何世代にもわたって守られていることを強く確信した。
これらのすべては、地方選挙戦の最中にトルコ共和国を訪問した大きな成果でもあり、まだ形になってはいないが、しかし、次の時代の新しい宗教回帰の息吹が、そこここに感じられる旅でもあった。
塩尻和子・2014年度海外出張報告 |
- 期間
- 2014年11月10日(月)〜19日(水)
- 用務地
- オーストリア共和国、ヨルダン・ハーシム王国、エジプト・アラブ共和国
- 用務先
- ウィーン、アンマン、サルト、カイロ(「目的・成果欄」参照)
- 目的・成果
- 1、2014年11月10日〜12日、オーストリア(ウィーン)
キング・アブドゥッラー・宗教間・文化間対話・国際センター(KAICIID, The King Abdullah bin Abdulaziz International Centre for Interreligious and Intercultural Dialogue)のThe Dialogue beyond Dialogue International Conferenceに参加を求められ、11月12日、最終日の午前中に行われたThe Third Opening Lectureで1時間の基調講演をおこなった。
今年度のKAICIIDはウィーンのHilton Plaza Hotelで11月10日〜12日に行われたが、私は11月10日の夜遅く到着し、11日から12日午前中の会合に出席した。Opening Lectureでは ”Japanese Religions and Interfaith Dialogue with Islam for the Peace Building”とのテーマで講演した。講演のパワーポイントとフルペーパーは2015年3月刊行の『IIET通信』48号に掲載される予定である。講演後、質疑応答を終えて、ヨルダンへ向かうために、同日午後には急いでウィーンを離れた。質疑応答では多くの質問を受けたが、なかでも「なぜイスラームは東南アジアには広まったが、日本にまで伝播しなかったのか」という質問が印象に残っている。おそらくイスラーム商人も、台風に遮られて、フィリピンから先へは行けなかったのだろうと答えたが、正解はわからない。
ウィーンへの出発直前になって、外務省から「日本政府からのメッセージ」を伝達するようにとの依頼を受け、出発前に外務省中東第2課と打合せしたとおり、私の講演の冒頭にパワーポイントで表示すると共に、いきさつを説明した。日本政府は以前から、サウジアラビアのアブドゥッラー国王が主催するKAICIIDの活動を支援する立場を表明しており、私の講演の機会に、そのことを伝えてほしいということであった。
席上配布された資料によると、参加者はKAICIID関係幹部を含めて77名で、私ども(夫がオブザーバーで出席)の他には欧米、中東のみならずインド、シンガポール、インドネシア、中国、韓国、チリからの参加者があった。今回の出席者の中には、昨年、300人を集めて大々的に開催された第1回会議の際に参加した人が多かったようで、すでに互いに知り合い、という雰囲気があった。宗教間・文化間対話活動には、多くの人が参加することに意義があると考える私には、どこの会議でもいつも同じような顔ぶれがそろうことには、不満も残るが、やむを得ないことかもしれない。
2、11月12日〜15日、ヨルダン(アンマン、サルト)
ヨルダンでは、夫が在ヨルダン日本国大使館に勤務していた1978年7月から1981年3月まで2年8か月を過ごした家の大家の一族に再会し旧交を温めると共に、シリアと国境を接するヨルダンの最近の社会事情を調査することが目的であった。今回は、その他に、JICAの支援をうけて、山口県萩市の萩博物館副館長、清水満幸氏の指導のもとで進展中の古都サルトの文化開発事業を視察することができた。たまたまウィーンのホテルでNHK国際放送をつけていたら特集として、萩市における町ぐるみの文化開発の取り組みの成功事例を参考にして、萩博物館がサルトの文化開発事業を支援する様子が放映されていて、実際にサルトを見学する際の予備知識となった。
サルトから車で1時間ほどで着くシリア国境では、たびたび戦闘が起こっていると聞いたが、サルトでも首都のアンマンでも、人びとの生活ぶりは平穏であった。20数年まえにもヨルダンを再訪したことがあるが、その時代に比べても市街地はさらに3倍程度にまで拡大しており、大規模商店や企業の事務所が増えてにぎやかになっていた。しかし、以前の清潔で落ち着いた美しい市街地の印象が失われていたことは、残念である。
宗教的変化としては、女性のベール姿が増えているのも印象的であったが、まだまだ普通の洋服を着ている女性が多く、伝統回帰運動は、あまり浸透していないように見えた。
印象的であったことは、郊外にはシリアやイラクからの難民キャンプが増えている一方で、首都圏には裕福な「難民」が高級アパートなどに棲みついていて、ヨルダンの経済を支えているということである。地政学的にも、周囲を紛争地に取り囲まれており、いまだに政治的にも経済的にも脆弱でありながらも、台風の目のように奇妙なバランスの上に平成を保っているという印象は、以前と変わらなかった。
3、2014年11月15日〜19日、エジプト(カイロ)
カイロは、エジプト国立カイロ大学文学部日本語学科創立40周年記念シンポジウムに招聘されたための出張である。11月16日の初日の開会式典では、私は夫と共にカイロ大学長から、カイロ大学日本語学科に貢献したとして感謝の盾を贈られた。式典で表彰されたのは5名の日本人であったが、私共夫婦はそのうちの2人となった。翌17日の朝一番に、私は記念のUnderstanding Key Concepts for Japanese Religious Studies in Arab World と題して研究発表を行った。シンポジウムの統一テーマが「アラブにおける日本研究の現状」であったので、「アラブでの日本研究の現状」についてほとんど情報を持たない私にとってはテーマを選ぶのに苦心をした。そこで、私が日本で出会った留学生たちが日本の伝統的な思想をあまり知らないことに注目して、このような発表となったが、多くの質問をうけて、この分野での関心の高さを再確認した。
シンポジウムでは、かつての教え子や日本語学科の卒業生たちの研究発表もおこなわれ、エジプト人の研究者や院生たちが日本語を使いこなして、三島由紀夫、寺山修二などを論じた。特に宮沢賢治の少年小説を論じた研究は極めてレベルの高い文学論であった。
翌日の18日に、ナーセル、サーダート、ムバーラクという3代の大統領に仕えた元副大統領・元副首相格で親日家のアブドゥル・カーデル・ハーテム博士(96歳)の自宅を、2年ぶりに訪問した。ハーテム博士は1952年のナーセル革命の自由将校団の中で唯一の生存者であり、私共とご一家との交流は、すでに40年近く続いている。96歳になった現在でも、年老いたとはいえ記憶は明晰で、日本とエジプト交流史の裏側などの話を、楽しそうに語られた。しかし、昨今のエジプトの政治状況については、固く口を閉ざされた。長男のターレク・ハーテム先生は、カイロ・アメリカン大学(AUC)のストラティジー学科の教授である。
今回の海外調査では、3か国を訪れ、11日間に及んだ出張となったが、多くの懐かしい人々に会うことができ、特にヨルダンとエジプトの現状を直接、観察することができたことは、大きな成果となった。
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塩尻和子・2015年度海外出張報告 |
- 期間
- 2016年1月26日(火)〜2月6日(土)
- 用務地
- アラブ首長国連邦、オマーン国
- 用務先
- ドバイ、マスカット(「目的・成果欄」参照)
- 目的・成果
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今年度の科学研究費補助金基盤研究(A)(海外学術調査)の海外調査地として、経済発展が著しいドバイ首長国を中心としたアラブ首長国連邦と、伝統を守りながらも穏やかな成長を目指しているオマーン国を選んで12日間の出張をおこなった。
日程・経路は以下のとおりである。
1月26日(火) 羽田発 →(ドーハ経由)→ドバイ着
1月31日(日) ドバイ発 →マスカット着
2月3日(水) マスカット発 →ドバイ着
2月5日(金) ドバイ発 →(ドーハ経由)→ 2月6日(土)成田着
ドバイ滞在中、Mr. Abdulfattah Sharaf, CEO, HSBC Middle East(1/26)、吉川恵章 三菱商事常務執行役員 中東・中央アジア統括(1/27)、H.E. Lt. Generall Dhahi Khalfan Tamim, Deputy Chairman of Police and Public Security in Dubai(2/4)、H.H. Sheikh Ahmad bin Saeed, Chaiman of Emirates Airalines(2/4)、道上尚史 在ドバイ日本国総領事(2/4)等と面談したほか、龍野祥治 在ドバイ日本国総領事館首席領事、杉本真崇 同領事館副領事、九門康之 東京三菱UFJ銀行中東担当顧問、皆木良夫 みずほ銀行ドバイ支店Executive Director、および本学国際関係学研究科修士課程を中退した元院生のアブドゥラーさん等と意見交換した。また、アブダビを除く周辺首長国(Sharja, Ajman, Umm AlQaiwain, Ras Al Khaima, Fujaira)を視察したほか、ドバイ首長国内のジュメイラ・モスク、ジャバルアリー・フリーゾーン、ハリーファ・タワーなどを見学した。
アラブ首長国連邦(UAE)は、サウジアラビアとともに、現イエメン政府軍への攻撃、および「イスラーム国」やシリアへの空爆にも参加している。2015年9月には、イエメン軍による攻撃でUAEの兵士45名、バーレーン軍の兵士5名、サウジアラビア軍の兵士数名が死亡した。周辺が戦乱の中にあるにもかかわらず、ドバイは観光客であふれ、商業施設には世界中のトップクラスの商品があふれている。ここではだれもが戦地になることなど夢想もしていない。昨年度、出張したカイロでもアンマンでも、大型ホテルでは、どこでも入口で安全チェックが行われていたが、UAEでは、ホテルも大型ショッピング・モールも、入口での安全検査など、何もしていなかった。
すぐ近くに戦乱の地があり、自国の兵士が参戦しているというのに、呑気すぎるほどの平静ぶりであった。世界中の料理も集まっているせいか、ベールをかぶっている女性の姿が多いにもかかわらず、レストランではアルコールが自由に飲め、ホテルのバーは夜な夜な賑わっていた。しかし、周辺の首長国では、建設ラッシュではあったが、人通りも少なく、インド・パキスタン系の労働者の姿が目立っていた。
[2月4日、ドバイで、ドバイのムハンマド首長の叔父君アフマド・イブン・サイード殿下(エミレーツ航空会長)に、夫とともに拝謁した。]
[警察庁副委員長との会談は、左のように現地紙に掲載された。]
オマーンの首都マスカットでは、齋藤 貢 在オマーン日本国大使(1/31)、Prof. Dr. Sulaiman Al-Shueil, Sultan Qabous University(2/1)、 H.E. Mr. Abdullah bin Mohammed Al-Salmi, Minister of AWQAF and Religious Affairs(2/1)等と面談したほか、GUtech(German University of Technology in Oman)を訪問し、Dr. Hussain Al Salmi, Deputy Rector Administration & Finance, Dr. Ahmed Saud Al Salmi等と意見交換した。また、在オマーン日本国大使館の今村充裕 書記官、藤本 綾 専門調査員等とも意見交換した。その他、Mutrahスーク、Sultan Military Museumなどを視察した。
スルターン・カーブース大学のスレイマーン教授は、5月に同志社大学で特別講義を予定している。また、スレイマーン教授の研究室で、以前、国際シンポジウムで出会った、チュニジア、スース大学のMabrouk Mansouri准教授に出会ったことも、意義深い思い出となった。たまたまオマーンの大学に職を得て働いているとのことである。
宗務大臣のアブドゥッラー・イブン・ムハンマド・サーリミー閣下からは2月2日の昼食会の招待をうけ、アラベスクで飾られたご自宅を訪問することができた。宗務大臣とGUtech関係者からは、日本との交流促進に期待を寄せているという意見を多く聞いた。
オマーンはスンナ派に所属するがイバード派という少数派に属しており、穏健な教義を持ち、シーア派諸派との対立も起こしてない。外交面でも全方位外交を意図しており、シリアや「イスラーム国」への派兵もしていない。
オマーンは前近代からインド洋を介して、インドとの通商が盛んであり、現在もインド系商人の店舗が多い。スークでは、多くの場合、アラビア語ではなく英語が主要言語となっていることは、興味深い。
また、ドバイとの違いを感じさせるものとしては、市中でオマーン人が働いていることである。オマーンでの2日間、移動の手段として依頼したレンタカーの運転手もオマーンの青年であり、オマーン・ドイツ工科大学GUtech(German University of Technology in Oman)へ案内してくれた学長秘書もオマーン女性であった。ドバイでは、国籍をもつドバイ人が市中で働く姿を見かけることは、ほとんどないが、オマーンでは良家の子女も職業を持つ、という点が印象的であった。
[2月1日、オマーンの宗務大臣アブドゥッラー・イブン・ムハンマド・サーリミー閣下を宗務省で表敬した。2日には大臣の私邸で、GUtech関係者とともに昼食をご馳走になった(右の写真)。]
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