塩尻和子・2012年度海外出張報告
期間
2012年12月19日(水)〜12月29日(土)
用務地
エジプト
用務先
・カイロ(「目的・成果欄」参照)
・アレキサンドリア(エジプト日本科学技術大学)
目的・成果
2012年12月19日〜29日までの実質9日間、エジプトの首都カイロと第2の都市アレキサンドリアを訪問した。2011年2月に始まるエジプトの民衆蜂起の経緯と、その後の宗教回帰運動の結果、イスラーム勢力が政権を掌握した国内の変化と人々の意識の変化や宗教動向、キリスト教徒の動向などの調査のために、ムスリムとキリスト教徒双方の旧友、カイロ大学教授、旧政権支援者、元副大統領、アメリカン大学教授、街で出会った若者たち、現地駐在の日本の新聞記者、商店主などに面談し、最近の社会、経済、宗教の動向を聞き取り調査した。滞在中に、新憲法認証のための国民選挙の実施と選挙結果の公表時期にあたり、国民の新憲法に対する意識を収集することができた。
またアレキサンドリアでは日本が支援するエジプト日本科学技術大学を訪問し、運営指導に当たっているJICA職員から事業の説明を受け、ハイリー学長に表敬し、新構想大学の事業成果情報を聞いた。
それらの結果、エジプトの大都市圏では、新聞報道によって伝えられるような過激な反政府運動やデモは、すでに見られなくなっており、国内情勢は平静を取り戻していた。また急進的イスラーム主義サラフィー主義者による暴力的な取り締まりや嫌がらせなどにも遭遇することもなく、人々との面談においても、この点が話題に上ることはなかった。
今回の調査を通して、新政権に期待しつつ,困難な現状を逞しく生き抜く人々の姿をとらえることができ、イスラームの持つ「人々が生きる宗教」の実態を把握することができた。この成果はすでに学術論文「生きられる宗教と宗教学…イスラーム研究再考」として脱稿し、今年度中に東京大学宗教学年報に掲載される予定であるが、本科研の今年度報告書においても別の視点から執筆して掲載する予定である。(2013年1月9日記)
塩尻和子・2013年度海外出張報告
期間
2013年10月22日(火)〜10月26日(土)
用務地
アメリカ
用務先
アメリカ・イスラーム大学(American Islam College)
ワシントンDC Hizmet Movement and Peacebuilding Conference
目的・成果
 10月23日に、アメリカ・イスラーム大学(American Islam College)の市民公開講座にて、Japanese Religions and the Interfaith Dialogue with Islam と題して、英語で1時間の講演を行い、20分の質疑応答に対応した。参加者は近隣の一般市民であるが関心が高く、熱心な質問が多く出た。日本人が講演するのは初めてということで、関係者から注目された。講演の様子は以下のサイトに掲載されている。
アメリカン・イスラーム大学“Japanese religions and the Interfaith Dialogue with Islam” -Dr. Shiojiri Lecture(外部リンク)

 10月25日、26日にはワシントンDCで開催されたHizmet Movement and Peacebuilding Conferenceに参加し、25日の第4部会のモデレーターを務めた。第4部会はスリランカ、エチオピア、ナイジェリアからの研究者による国内の宗教間の融和を図る困難な事情が説明されたので、その発表を取りまとめ、質疑応答を行った。日本人としては初めての具体的な参加となり、大変に喜ばれたが、私自身にも大きな成果となった。25日の夕食会では、特別に挨拶を求められ、こちらも日本について、よい印象を与えたと思われる。
 ヒズメット運動とはトルコ出身のファトフッラー・ギュレン(1941〜)の思想に基づいて実施されている宗教間対話、平和構築、教育などを含む国際的NGO活動である。2008年には、世界に影響を与える100人の思想家のトップに選ばれたことがある。ギュレンの思想に基づく教育について、2009年にはニューズウイーク誌では2百万人の学生を擁する教育機関が運営されていると報じている。病気治療を理由にギュレン自身は現在、アメリカのペンシルヴェニアで暮らし、執筆活動を続けているが、非暴力を主張する宗教活動と宗教間対話と平和構築を掲げたヒズメット運動は、世界各地で開催されている。
期間
2013年11月14日(木)〜11月21日(木)
用務地
チュニジア
用務先
ハマメット 第14回チュニジア‐日本 文化・科学・技術学術会議(TJASSST)
目的・成果
 TJASSSTは、日本学術振興会の二国間交流協定によって開催される文理融合型の学術会議で、北アフリカおよび日本各地から250人を超える研究者が集合した。私は人文社会系セッションで基調講演を行い、2日目のセッションでは司会を務めた。基調講演では日本の現代の宗教環境を説明し、他宗教、イスラームとの対話の可能性を論じた。また、スタディ・ツアーでは、世界遺産のローマ遺跡や古都カイラワーンの大モスクなどの歴史的遺跡を訪問したが、モスクや聖者廟などの意味についても解説をおこない、にわかガイド役も務めた。本学からは、宮治美江子名誉教授と支援者として宮川純子職員が参加した。
期間
2014年3月15日(土)〜2014年3月19日(水)
用務地
トルコ共和国
用務先
イズミル、シャンルウルファ、イスタンブル(スレイマーン・シャー大学)
目的・成果
 私にとって3度目のトルコ訪問となる今回の出張では、日本からイスタンブルを経て、まずイズミルで1泊、翌日の夕方にはイスタンブルへ戻って一泊し、シリア国境に近いシャンルウルファへ飛んで、2泊をし、そのままシャンルウルファからイスタンブル経由で帰国するという、短期間に東奔西走をした出張であった。薄紅色の果樹の花が開きかけた早春のイズミルから、まだ冬枯れのピスタチオの農園が広がるハッラーンまで、広大なトルコを東西に駆け抜けた旅となった。同行して頂いたのは、日本トルコ文化交流会の広報担当、エブル・イスピル博士(出張期間は3月23日まで)と、本科研の分担者、岩崎真紀先生(筑波大学、出張期間は3月29日まで)である。できれば、本報告は、岩崎真紀先生の出張報告と合わせて、ご覧いただきたい。

1、ハッラーン
 シャンルウルファの町から車で1時間ほどの距離にあるハッラーンは、アブラハムに因む場所として、ヘブライ語聖書でカランとして触れられている(創世記11章31〜32節)古代都市の遺跡である。アブラハムがまだアブラムと名乗っていた頃、神の指示に従って、カナーンへ向かうために、一族を率いてカルデアのウルを出たのち、一時期、住んでいた町である。しかし、この町が世界文明史において、非常に重要な役割を果たした町であることは、あまり知られていない。
 今回、初めて訪れてみると、ハッラーンの遺跡には「世界最古の大学」という看板が建てられていた。大学として世界最古に当たるかどうかの判断は難しいが、紀元前387年頃にプラトンが創設したギリシアのアカデミヤを引き継いで、古代ギリシアの文献を現在に伝える役割を果たしたのが、このハッラーンとジュンディーシャープール(現在のイラン西部)の学問所であった。
 ビザンティン皇帝ユスティニアヌスは529年に、ギリシアの学問が多神教時代のものであるとして、アカデミヤを閉鎖したが、ハッラーンでは431年のエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派キリスト教徒が中心となって、ギリシアの哲学書や科学書がまずシリア語に翻訳された。ネストリウス派のキリスト教徒は、当時、シリア語を用いていたからである。このシリア語訳のギリシア文献が、アッバース朝期になると、カリフの命令でバグダードへ移され、「知恵の館」の大翻訳事業へと繋がった。やがてイスラーム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒たちとの共同作業によって、ほとんどすべてのギリシア語文献が、直接アラビア語に翻訳されるという一大翻訳事業が展開された。
 その結果、アッバース朝の都、バグダードを中心に、哲学、数学、医学、薬学、化学、天文学などの現代の科学技術につながる輝かしいイスラーム文明が発展したのである。そういう意味では、世界の文明史においてハッラーンの町が果たした役割は、非常に大きいが、いまでは荒れ果てた数本の柱や小さいアーチなどが残るのみで、世界の秘境の一つとなっている。
 実は当初、旅行行程表に「ハラン村見学」とあるのを見たときには、私が長年、訪れたいと願っていたあのハッラーン遺跡であるとは、思いつかなかった。それだけに、今回の旅では、イスラーム思想史を研究する私には、実に感慨深い、嬉しい訪問となった。
 ネストリウス派を異端と決定したエフェソス公会議の跡地も、トルコの地中海沿岸、イズミルの郊外に残っている。今回、古代ローマ遺跡を中心としたエフェソスも訪問したが、残念ながら、公会議跡地は遺跡群から離れていて、そこまでは行くことができなかった。
 シャンルウルファの町からハッラーンへ向かう途中で、シリア難民を収容している国連施設の巨大なテントが、はるか遠くに霞んでみえた。この難民施設でも、「キムセヨクム」などのトルコの慈善団体が、難民救済活動を展開している。

2、預言者たちの足跡
 シャンルウルファの町には、アブラハムとヨブという2人の重要な預言者に因む場所があった。ヘブライ語聖書のヨブ記には、正義の人であるヨブが神の激しい試練を受けながらも、神を信じ続ける姿が描かれているが、体中にできた「できもの」を泉の水で洗うと治癒した、という記述はない。しかし、クルアーン38章41〜42節には、アイユーブ(ヨブ)が神の言葉に従って、足で地面を踏むと清らかな水が湧き出てきて、その水で体を洗うとたちまち「できもの」は治癒したと記述されている。その泉の場所がシャンルウルファの町の地下にあるヨブの泉であり、今日まで聖なる水が湧き出ている、と信じられている。
 アブラハムが生まれたとされる青い湖と、敵に火をかけられたが、神が炎を水に替えたという故事(クルアーン21章68〜69節)にちなむ聖なる川、それらを取り込むように立つ壮大な聖アブラハム・モスクは、ウルファ城の遺跡が立つ丘のふもとに見られる。
 ヘブライ語聖書によれば、アブラハムはシヌアルという土地で父テラから生まれた、と記載されている。ハッラーンはアブラハム一族にゆかりがある土地であるとされるが、彼がウルファで生まれたという記述は、聖書にもクルアーンにも見られない。しかし、土地の人々は、彼が迫害を避けて青い湖の洞窟内で生まれたと信じている。私達が訪ねたときも、青い湖の洞窟には、多くの敬虔な人々が、長時間、座り込んで祈りを捧げていた。
 聖アブラハム・モスクの一角に、サイード・ヌルスィー(1876-1960)の墓地の跡が、壁に掲げられた墓碑銘とともに、そのままに残されていた。ヌルスィーはトルコ近代の高名な神秘主義思想家である。彼の墓は他所へ移されたが、今日でも格子戸の外から敬意の眼差しを向ける人が多い。
 さらにシャンルウルファでは、市内にある「無料塾」を訪問した。これはヒズメット運動の活動のひとつであるが、十分な教育を受けられない家庭の子女に無料で良質な教育を施すボランティアの施設であり、家族の宗教や母語(トルコ東部にはアラビア語やクルド語を話す部族や、ギリシア正教やアルメニア正教のキリスト教徒も住んでいる)にかかわらず、多くの子供たちを受け入れている。ここでは、使命感をもって教育活動を続ける女性たちの姿に感銘を受けた。貧しい家庭の子供たちも、良質な教育を受けることで生活力を身につけることができ、戦闘的な集団の誘いに乗らないでも、生きていくことができるようになるからである。
 生徒の中にアラビア語を母語として話す家庭の少女もいて、訪れた私達に可愛い声で歓迎の歌を唄ってくれた。アブラハムとヨブという預言者に因む民間信仰が生きている町では、率先してボランティア活動を行う人びとの献身的な姿が強く印象に残った。

3、スレイマーン・シャー大学で
 イスタンブル郊外に3年前に開校したスレイマーン・シャー大学では、以前から会いたいと願っていた人文社会学部長のアドナン・アスラン教授に会うことができた。アスラン教授の学位論文をもとにして出版されたReligious Pluralism in Christian and Islamic Philosophy(Curzon Press, 1998)に大きな感銘を受けた私は、いくつかの論文でそれを紹介した。今回、そのひとつで、共著の『宗教多元主義を学ぶ人のために』(世界思想社)を先生にプレゼントした。日本語であるが、アスラン先生の著作を紹介している注の箇所に付箋をつけて渡すと、アスラン先生は顔を赤らめて恥ずかしそうに「遠い日本の研究者が私の本を読んでくれて、研究に使ってくれていたなんて」と喜んでくださった。
 私の講演は、大学にとっては急な手配となったようであるが、午後4時から1時間、という約束で、”New Challenge of Interfaith Dialogue with Islam in Japanese Religious Environment” を発表させて頂いた。思いがけず60名以上もの学生と教員が参加して下さった。ほとんどの日本人は本人が気づかないうちに、仏教・神道に所属しており、自主的に参加している宗教を加えると、一人が2つ以上の宗教団体に登録されている、と話すと、会場から驚きの声が上がった。講演後に何人かの人から、複数の宗教に所属していることについて質問があり、日本の「宗教に無関心な」宗教環境について理解が難しいという印象をうけた。
 その後、日本トルコ文化交流会のエブル・イスピルさんから、トルコ国民の身分証明書には必ず、自分が所属する宗教名が1つだけ記載されており、この身分証明書は肌身離さず、身につけていなければならないのだと、聞かされた。トルコの人々にとっては、複数の宗教名をどのように記載するのかという点と、イスラーム以外の信仰を持つことが禁じられているムスリムにとっては、複数の宗教に参加するということは、宗教法に触れる大犯罪であるという点に、戸惑いがあったのである。
 トルコ共和国は成立以降、世俗主義を国是としている。従って、世俗主義の社会であっても、人々が自己の所属する宗教名を記載した身分証明書を携行しなければならないとは、私は、うかつにも気づかなかった。私の講演を聞いたトルコの学生や教員たちが、非常に驚いた顔をしていたのも、きちんとした理由があったのである。
 トルコ社会が、世俗主義を国是としながらも、国民の宗教所属を固定化している点において、実質的には宗教社会であることを示している。それゆえに、現在のトルコで、穏健で普遍的な宗教回帰の現象が生じていることが理解できる。トルコ社会につちえ、またひとつ、新しい視点を学ばせて頂いた、よい機会となった。

4、家庭訪問
 今回の短いトルコ滞在中に、イズミルとシャンルウルファの2都市で、ヒズメット運動に賛同している一般の家庭を訪れる機会を与えていただいた。トルコ地方選挙戦の最中であり、街中に旗飾りやプラカードが溢れている騒々しい中で、見ず知らずの私達を、二つの家族は暖かく迎えてくださった。
 トルコでは、決して裕福とはいえない、中流程度の家庭であると説明されたが、フラットの広さ、家具の質の良さ、子供たちの教育レベルの高さ、そして、なによりも心のこもった持て成しに感激した訪問となった。こうしたボランティア活動に熱心な、ごく普通の家庭がヒズメット運動を底支えしていることが、よく理解できる訪問となった。
 イズミルの家庭では、長男が日本の高知大学を卒業し、現在はイズミルの日系企業で働いていることで、久しぶりに日本語で話せると、とても喜んでくれた。しかし、両親や兄弟たちは、日本語も英語もできず、その長男とエブルさんの通訳で意思を通じあった。
 言葉の問題は、シャンルウルファの家庭でも同じことで、二組の家族が集まってくださり、心づくしの夕食を頂戴したが、直接、意志を通じあうことができず、こちらでもエブルさんの通訳のお世話になった。
 トルコ語ができない私には、言葉を通して直接に通じ合うことはできなかったが、世俗主義を国是とするトルコ共和国にあって、穏やかな宗教回帰を感じさせてくれる篤信家の人々に出会え、「旅人には親切に」というイスラームの精神が何世代にもわたって守られていることを強く確信した。
 これらのすべては、地方選挙戦の最中にトルコ共和国を訪問した大きな成果でもあり、まだ形になってはいないが、しかし、次の時代の新しい宗教回帰の息吹が、そこここに感じられる旅でもあった。
塩尻和子・2014年度海外出張報告
期間
2014年11月10日(月)〜19日(水)
用務地
オーストリア共和国、ヨルダン・ハーシム王国、エジプト・アラブ共和国
用務先
ウィーン、アンマン、サルト、カイロ(「目的・成果欄」参照)
目的・成果
1、2014年11月10日〜12日、オーストリア(ウィーン)
 キング・アブドゥッラー・宗教間・文化間対話・国際センター(KAICIID, The King Abdullah bin Abdulaziz International Centre for Interreligious and Intercultural Dialogue)のThe Dialogue beyond Dialogue International Conferenceに参加を求められ、11月12日、最終日の午前中に行われたThe Third Opening Lectureで1時間の基調講演をおこなった。
 今年度のKAICIIDはウィーンのHilton Plaza Hotelで11月10日〜12日に行われたが、私は11月10日の夜遅く到着し、11日から12日午前中の会合に出席した。Opening Lectureでは ”Japanese Religions and Interfaith Dialogue with Islam for the Peace Building”とのテーマで講演した。講演のパワーポイントとフルペーパーは2015年3月刊行の『IIET通信』48号に掲載される予定である。講演後、質疑応答を終えて、ヨルダンへ向かうために、同日午後には急いでウィーンを離れた。質疑応答では多くの質問を受けたが、なかでも「なぜイスラームは東南アジアには広まったが、日本にまで伝播しなかったのか」という質問が印象に残っている。おそらくイスラーム商人も、台風に遮られて、フィリピンから先へは行けなかったのだろうと答えたが、正解はわからない。
ウィーンへの出発直前になって、外務省から「日本政府からのメッセージ」を伝達するようにとの依頼を受け、出発前に外務省中東第2課と打合せしたとおり、私の講演の冒頭にパワーポイントで表示すると共に、いきさつを説明した。日本政府は以前から、サウジアラビアのアブドゥッラー国王が主催するKAICIIDの活動を支援する立場を表明しており、私の講演の機会に、そのことを伝えてほしいということであった。
 席上配布された資料によると、参加者はKAICIID関係幹部を含めて77名で、私ども(夫がオブザーバーで出席)の他には欧米、中東のみならずインド、シンガポール、インドネシア、中国、韓国、チリからの参加者があった。今回の出席者の中には、昨年、300人を集めて大々的に開催された第1回会議の際に参加した人が多かったようで、すでに互いに知り合い、という雰囲気があった。宗教間・文化間対話活動には、多くの人が参加することに意義があると考える私には、どこの会議でもいつも同じような顔ぶれがそろうことには、不満も残るが、やむを得ないことかもしれない。

2、11月12日〜15日、ヨルダン(アンマン、サルト)
 ヨルダンでは、夫が在ヨルダン日本国大使館に勤務していた1978年7月から1981年3月まで2年8か月を過ごした家の大家の一族に再会し旧交を温めると共に、シリアと国境を接するヨルダンの最近の社会事情を調査することが目的であった。今回は、その他に、JICAの支援をうけて、山口県萩市の萩博物館副館長、清水満幸氏の指導のもとで進展中の古都サルトの文化開発事業を視察することができた。たまたまウィーンのホテルでNHK国際放送をつけていたら特集として、萩市における町ぐるみの文化開発の取り組みの成功事例を参考にして、萩博物館がサルトの文化開発事業を支援する様子が放映されていて、実際にサルトを見学する際の予備知識となった。
 サルトから車で1時間ほどで着くシリア国境では、たびたび戦闘が起こっていると聞いたが、サルトでも首都のアンマンでも、人びとの生活ぶりは平穏であった。20数年まえにもヨルダンを再訪したことがあるが、その時代に比べても市街地はさらに3倍程度にまで拡大しており、大規模商店や企業の事務所が増えてにぎやかになっていた。しかし、以前の清潔で落ち着いた美しい市街地の印象が失われていたことは、残念である。
 宗教的変化としては、女性のベール姿が増えているのも印象的であったが、まだまだ普通の洋服を着ている女性が多く、伝統回帰運動は、あまり浸透していないように見えた。
 印象的であったことは、郊外にはシリアやイラクからの難民キャンプが増えている一方で、首都圏には裕福な「難民」が高級アパートなどに棲みついていて、ヨルダンの経済を支えているということである。地政学的にも、周囲を紛争地に取り囲まれており、いまだに政治的にも経済的にも脆弱でありながらも、台風の目のように奇妙なバランスの上に平成を保っているという印象は、以前と変わらなかった。

3、2014年11月15日〜19日、エジプト(カイロ)
 カイロは、エジプト国立カイロ大学文学部日本語学科創立40周年記念シンポジウムに招聘されたための出張である。11月16日の初日の開会式典では、私は夫と共にカイロ大学長から、カイロ大学日本語学科に貢献したとして感謝の盾を贈られた。式典で表彰されたのは5名の日本人であったが、私共夫婦はそのうちの2人となった。翌17日の朝一番に、私は記念のUnderstanding Key Concepts for Japanese Religious Studies in Arab World と題して研究発表を行った。シンポジウムの統一テーマが「アラブにおける日本研究の現状」であったので、「アラブでの日本研究の現状」についてほとんど情報を持たない私にとってはテーマを選ぶのに苦心をした。そこで、私が日本で出会った留学生たちが日本の伝統的な思想をあまり知らないことに注目して、このような発表となったが、多くの質問をうけて、この分野での関心の高さを再確認した。
 シンポジウムでは、かつての教え子や日本語学科の卒業生たちの研究発表もおこなわれ、エジプト人の研究者や院生たちが日本語を使いこなして、三島由紀夫、寺山修二などを論じた。特に宮沢賢治の少年小説を論じた研究は極めてレベルの高い文学論であった。
 翌日の18日に、ナーセル、サーダート、ムバーラクという3代の大統領に仕えた元副大統領・元副首相格で親日家のアブドゥル・カーデル・ハーテム博士(96歳)の自宅を、2年ぶりに訪問した。ハーテム博士は1952年のナーセル革命の自由将校団の中で唯一の生存者であり、私共とご一家との交流は、すでに40年近く続いている。96歳になった現在でも、年老いたとはいえ記憶は明晰で、日本とエジプト交流史の裏側などの話を、楽しそうに語られた。しかし、昨今のエジプトの政治状況については、固く口を閉ざされた。長男のターレク・ハーテム先生は、カイロ・アメリカン大学(AUC)のストラティジー学科の教授である。
 今回の海外調査では、3か国を訪れ、11日間に及んだ出張となったが、多くの懐かしい人々に会うことができ、特にヨルダンとエジプトの現状を直接、観察することができたことは、大きな成果となった。
塩尻和子・2015年度海外出張報告
期間
2016年1月26日(火)〜2月6日(土)
用務地
アラブ首長国連邦、オマーン国
用務先
ドバイ、マスカット(「目的・成果欄」参照)
目的・成果
 今年度の科学研究費補助金基盤研究(A)(海外学術調査)の海外調査地として、経済発展が著しいドバイ首長国を中心としたアラブ首長国連邦と、伝統を守りながらも穏やかな成長を目指しているオマーン国を選んで12日間の出張をおこなった。
 日程・経路は以下のとおりである。

1月26日(火)  羽田発 →(ドーハ経由)→ドバイ着
1月31日(日)  ドバイ発 →マスカット着
2月3日(水)  マスカット発 →ドバイ着
2月5日(金)  ドバイ発 →(ドーハ経由)→ 2月6日(土)成田着

 ドバイ滞在中、Mr. Abdulfattah Sharaf, CEO, HSBC Middle East(1/26)、吉川恵章 三菱商事常務執行役員 中東・中央アジア統括(1/27)、H.E. Lt. Generall Dhahi Khalfan Tamim, Deputy Chairman of Police and Public Security in Dubai(2/4)、H.H. Sheikh Ahmad bin Saeed, Chaiman of Emirates Airalines(2/4)、道上尚史 在ドバイ日本国総領事(2/4)等と面談したほか、龍野祥治 在ドバイ日本国総領事館首席領事、杉本真崇 同領事館副領事、九門康之 東京三菱UFJ銀行中東担当顧問、皆木良夫 みずほ銀行ドバイ支店Executive Director、および本学国際関係学研究科修士課程を中退した元院生のアブドゥラーさん等と意見交換した。また、アブダビを除く周辺首長国(Sharja, Ajman, Umm AlQaiwain, Ras Al Khaima, Fujaira)を視察したほか、ドバイ首長国内のジュメイラ・モスク、ジャバルアリー・フリーゾーン、ハリーファ・タワーなどを見学した。
 アラブ首長国連邦(UAE)は、サウジアラビアとともに、現イエメン政府軍への攻撃、および「イスラーム国」やシリアへの空爆にも参加している。2015年9月には、イエメン軍による攻撃でUAEの兵士45名、バーレーン軍の兵士5名、サウジアラビア軍の兵士数名が死亡した。周辺が戦乱の中にあるにもかかわらず、ドバイは観光客であふれ、商業施設には世界中のトップクラスの商品があふれている。ここではだれもが戦地になることなど夢想もしていない。昨年度、出張したカイロでもアンマンでも、大型ホテルでは、どこでも入口で安全チェックが行われていたが、UAEでは、ホテルも大型ショッピング・モールも、入口での安全検査など、何もしていなかった。
 すぐ近くに戦乱の地があり、自国の兵士が参戦しているというのに、呑気すぎるほどの平静ぶりであった。世界中の料理も集まっているせいか、ベールをかぶっている女性の姿が多いにもかかわらず、レストランではアルコールが自由に飲め、ホテルのバーは夜な夜な賑わっていた。しかし、周辺の首長国では、建設ラッシュではあったが、人通りも少なく、インド・パキスタン系の労働者の姿が目立っていた。

[2月4日、ドバイで、ドバイのムハンマド首長の叔父君アフマド・イブン・サイード殿下(エミレーツ航空会長)に、夫とともに拝謁した。]

   
[警察庁副委員長との会談は、左のように現地紙に掲載された。]

 オマーンの首都マスカットでは、齋藤 貢 在オマーン日本国大使(1/31)、Prof. Dr. Sulaiman Al-Shueil, Sultan Qabous University(2/1)、 H.E. Mr. Abdullah bin Mohammed Al-Salmi, Minister of AWQAF and Religious Affairs(2/1)等と面談したほか、GUtech(German University of Technology in Oman)を訪問し、Dr. Hussain Al Salmi, Deputy Rector Administration & Finance, Dr. Ahmed Saud Al Salmi等と意見交換した。また、在オマーン日本国大使館の今村充裕 書記官、藤本 綾 専門調査員等とも意見交換した。その他、Mutrahスーク、Sultan Military Museumなどを視察した。
 スルターン・カーブース大学のスレイマーン教授は、5月に同志社大学で特別講義を予定している。また、スレイマーン教授の研究室で、以前、国際シンポジウムで出会った、チュニジア、スース大学のMabrouk Mansouri准教授に出会ったことも、意義深い思い出となった。たまたまオマーンの大学に職を得て働いているとのことである。
 宗務大臣のアブドゥッラー・イブン・ムハンマド・サーリミー閣下からは2月2日の昼食会の招待をうけ、アラベスクで飾られたご自宅を訪問することができた。宗務大臣とGUtech関係者からは、日本との交流促進に期待を寄せているという意見を多く聞いた。
 オマーンはスンナ派に所属するがイバード派という少数派に属しており、穏健な教義を持ち、シーア派諸派との対立も起こしてない。外交面でも全方位外交を意図しており、シリアや「イスラーム国」への派兵もしていない。
 オマーンは前近代からインド洋を介して、インドとの通商が盛んであり、現在もインド系商人の店舗が多い。スークでは、多くの場合、アラビア語ではなく英語が主要言語となっていることは、興味深い。
 また、ドバイとの違いを感じさせるものとしては、市中でオマーン人が働いていることである。オマーンでの2日間、移動の手段として依頼したレンタカーの運転手もオマーンの青年であり、オマーン・ドイツ工科大学GUtech(German University of Technology in Oman)へ案内してくれた学長秘書もオマーン女性であった。ドバイでは、国籍をもつドバイ人が市中で働く姿を見かけることは、ほとんどないが、オマーンでは良家の子女も職業を持つ、という点が印象的であった。

   
[2月1日、オマーンの宗務大臣アブドゥッラー・イブン・ムハンマド・サーリミー閣下を宗務省で表敬した。2日には大臣の私邸で、GUtech関係者とともに昼食をご馳走になった(右の写真)。]


池田美佐子・2013年度海外出張報告
期間
2013年11月14日(木)〜2013年11月19日(火)
用務地
チュニジア共和国、ハマメット
用務先
第14 回チュニジア‐日本 文化・科学・技術学術会議(TJASSST)
目的・成果
 今回のチュニジア出張は、チュニジア−日本文化・科学・技術学術会議(TJASSST)に参加し、研究発表を行うことが目的であった。開催地はチュニジアのハマメットであった。同会議の開催は今年が14 回目で、本報告者もこれで3 回目の参加となる。 本科研代表者の塩尻和子先生は、この会議の運営に長年携わり貢献されてこられた。本年度の会議は11 月15 日から3 日間開催され、初日にはオープニングセレモニー、基調講演が行われた。17,18 日は個別の研究発表で、本報告者は塩尻先生が基調講演をなさった人文・社会科学のセッションに参加し、初日の第2セッションで「The Uneasy Road to Democracy: Parliamentary Development in Egypt」という題目で発表をおこなった。 発表に続く質疑応答では、議会における民主主義の意味やエジプトにおける民主主義の特徴について質問をうけた。18 日の午後は全体のまとめのセッションがあり、閉会した。12 月の東京国際大学で開催された本科研の研究会で本報告者が行った発表は、このチュニジアでの発表を加筆修正したものである。

岩崎真紀・2014年度海外出張報告
期間
2014年3月15日(土)〜2014年3月28日(金)
用務地
トルコ共和国
用務先
イズミル、シャンルウルファ、マルディン、イスタンブル(スレイマーン・シャー大学、アヤソフィア、スルタン・アハメット・ジャーミィ)、カッパドキア、コンヤ
目的・成果
はじめに
 先般、本科研の分担者として、代表者である塩尻和子東京国際大学国際交流研究所長/筑波大学名誉教授と日本トルコ文化交流会のエブル・イスピル博士とともに、トルコを訪問した。
 わたしにとり、トルコ訪問は今回が初めてだったのだが、自身の専門である宗教学という観点からみて、ヨーロッパとアジアが交差する国トルコが、民族、言語、宗教的に多様であることに驚かされた。その驚きは、同時に、民族や宗教の境界線が、現代とはまったく異なるオスマン朝時代(1299−1922)のトルコの姿に思いを馳せる機会ともなった。そもそもオスマン朝が、日本でいえば鎌倉時代から大正時代にかけての600年以上ものあいだ続いたこと、そして、最盛期には中央アジアから東ヨーロッパにわたる広大な領土を統治したことからして、現代から見ると驚異的である。
 また、トルコは、景観、芸術、食という観点からも、大変興味深かった。
 以下、今般の出張の成果をまとめた。

民族的多様性
 現在、トルコ人と一口に言っても、髪や目、肌の色は実に様々である。カッパドキアでお世話になった方の祖先はモロッコ出身、そのご伴侶の祖先は東ヨーロッパ出身とのことで、おふたりとも一見したところはいわゆるアラブ人と東ヨーロッパ人のようだった(アラブ人や東ヨーロッパ人のなかにも多様性はあるが)。イスラーム神秘主義最大の詩人のひとりルーミー(1207−1273)の廟があるコンヤに行った際には、アルジェリアから来ていた神秘主義者グループと出会った。じっくり話してみると、彼らの祖先はもともとトルコに住んでおり、オスマン朝時代にアルジェリアに移り住んだとのことだった。このような人々の姿は、民族や文化といった境界をやすやすと超え、世界を切り拓いていった当時の人々の姿を体現しているようだ。

言語的多様性
 トルコでは、トルコ語、アラビア語、クルド語、シリア語、アルメニア語など、民族ごとに異なる言語が用いられており、それ以外の言語に堪能な方も多かった。例えば、クルド語、トルコ語、アラビア語を話すクルド系出自を持つ公務員の男性やアルメニア語、トルコ語、英語を話すアルメニア正教徒のジャーナリストの女性などにお世話になった。民族的多様性は言語的多様性と関係している。余談だが、アラブ系人口が多いシャンルウルファとマルディンでは、アラブ系ムスリムとシリア正教の方にインタビューする機会を得たが、英語を解さない先方とトルコ語を解さないわたしのあいだで共通の言語として役立ったのは、アラビア語だった。

宗教的多様性
 トルコは人口の99%がムスリムでありながら、その国是は世俗主義である。したがって、イスラームに対する考え方や実践については個人差が大きいことはよく耳にしていたが、今回それがよく分かった。「神のことは深く信じているが、一日五回の礼拝はしないし、お酒も飲むし、タバコも吸う」と公言する人に何人も出会った。他方で大変熱心に信仰を実践している人もたくさんいたが、このような人たちも、「自身の信仰をどのように実践するかは個人の問題」と言っており、実践しない人のことを声高に批判するようなことはなかった。このようなトルコのムスリムの多様なあり方を見てとることができたのは、大きな収穫だった。
 一方、シリア正教徒、アルメニア正教徒、アルメニア・カトリック教徒の方々との出会いを通して、イスラーム社会のなかで脈々と受け継がれてきたキリスト教の伝統の現場に触れることができたことも、貴重な体験だった。同じイスラーム社会の宗教的マイノリティである、エジプト総人口の約10%を占めるコプト正教徒と、シリア正教会、アルメニア正教会、アルメニア・カトリック、ギリシア正教会などさまざまな宗派を合わせても総人口の1%に満たないトルコのキリスト教徒とのあいだには、共通点と相違点がさまざまなかたちで見てとれた。いずれにしても、イスラーム以前からつづくキリスト教宗派が、現代まで独自の共同体を保持しえた理由やイスラームの他宗教への寛容さについては、今後より深く探求していきたい。

景観
 イスタンブルの青々とした海峡に映える赤茶色の屋根と白い壁の家々、メソポタミアの広大な緑の中に忽然と現れる、天空の城ラピュタを彷彿とさせる灰茶色の岩山の街マルディン、真っ白な裾を翻し扇舞するスーフィーたちの伝統が現在にも生きている、どこか穏やかな空気が漂うコンヤ、いずれも大変印象深かった。

芸術
   イスタンブルのスルタン・アフメットモスクの内部は、繊細で可憐なアラベスクで彩られており、ずっと眺めていても飽きることがない。これほど有名ではなくとも、訪れたどの街のモスクも、内部には美しいアラベスクが描かれており、トルコのモスクの芸術性の高さを感じた。


 豊富な食材と多彩な方法で調理されたトルコ料理は、どんな小さなレストランでも本当に美味だった。なかでもコンヤで食べたエトリ・エキメッキ(薄生地のピザ)のおいしさは格別だった。固い桃に似た歯ごたえでさわやかな味わいのまだ青い生のアーモンドの実、色とりどりの宝石のように輝くお菓子ロクムも印象的だ。所狭しと置かれたさまざまなナッツ類やドライフルーツには、どの街の市場に行っても目を引かれた。

おわりに
 折しも地方選挙直前の時期の滞在だったため、政党ごとに異なる、色とりどりの宣伝用小旗が、どの街にもはためいていた。与党議員の汚職問題が巷間を賑わし、首相がこの問題の元凶とみなしたツイッターを遮断するという事態も起きた(のちに裁判所の命令で再開)。そんななか、わたしが接した多くのトルコ人は、「トルコはこの10年で経済的には大きく発展(GDPが約4倍)したように見えるが、現在、岐路に立っている。トルコが民主的な国家として真に発展していくためには、指導者が変わらなければならない」という趣旨のことを述べていた。最終的に選挙では与党が勝ったが、その結果に満足していない国民も多い。2013年10月には本邦の首相がトルコを訪問、今年1月にはトルコ首相が来日し、両国の関係は今後ますます緊密になってくるものと考えられる。日本にとっても、トルコの国内情勢はひきつづき注視する必要があるだろう。

植村清加・2013年度海外出張報告
期間
2014年2月10日(月)〜2月22日(土)
用務地
フランス共和国
用務先
フランス・パリ市およびオードセーヌ県
目的・成果
 ヨーロッパ地域、とりわけ政教分離の伝統により宗教と市民のありようを特異な形態で形成してきたフランスにおいて、国家領土内へのムスリム系移民の流入を通じ、人びとによって拡大・移植されつつあるイスラームの姿を捉えることは、変革期のイスラームの役割と課題において、「イスラーム社会像」の変容を迫ることにつながるだろう。 いまやイスラームは、移民を通じてフランス第二の宗教といわれるまでに拡大しつつあるが、宗教観の衝突や生活・子育て・女性の仕事の獲得、あるいはハラール商品のグローバル化・消費の影響等、人びとの生活に密接に関連する部分から変容しつつある状況である。 本研究では、パリ地域のマグレブ系住民を主たるフィールドとしてきた都市人類学の立場から調査研究・資料の収集を行った。変革期のイスラームを、民主化・市場経済・社会的価値といった諸要素と旧植民地マグレブ地域との往来をもちながらフランスで暮らす移民たちの生活様式・世代間変容・都市空間の変容との結びつきのなかで多角的に把握することが今年度の目的である。主な訪問先・調査内容は以下の通りである。

(1)政教分離が社会規範を貫くフランス社会においてムスリムであること:多文化的な背景をもつ住民が生活するパリ郊外の幼稚園を訪問し、年長(5歳児)クラスの授業見学、子育て中の教員・母親ら(マグレブ系移民第二世代)に子供の教育と仕事とイスラーム実践についてインタビューした。 (2)移民出身者によるメディア資料の収集:近年フランスでは移民作家による漫画作品が第三のメディアとして注目されており、現在、ポンピドゥー国立美術文化センターCentre national d'art et de culture Georges-Pompidou や、2007 年にフランスではじめて設立された国立移民史博物館Cite nationale de l’histoire de l’immigration で特集が組まれている。これらの作品は、ムスリム系移民の過去と現在を含んだ日常生活のなかに生きづくイスラームの存在を知る資料であると同時に、移民の自伝的あるいはドキュメンタリーの要素を持つことで社会風刺や社会変革の力などを考える有効な資料である。 また、移民個々人あるいはさまざまな形で移民たちがかかわってきたフランスのアソシエーション組織に接近する民族誌的調査に新たな糸口を提供する材料でもある。上記2ヶ所での展示の訪問、研究動向の調査と平行して、内容考察を行うために特徴をもった作品の収集を行った。 (3)都市の空間変化に関する調査:(a)市場でのイスラムおよびハラール関連商品・商売の展開と、マグレブ系住民への消費文化や消費行動に関する意識調査。(b)モスク建設に関する状況把握。(c)マグレブ系移民とフランスの関係やアラブ革命の影響として、パリ地域の道路や広場に新たに「記憶の場」として命名された場所(ジャスミン革命の引き金をひいたとされるモハメド・ブアジジ青年の名前をつけた広場Place de Mohamed Buazizi 等)の訪問を行った。 ハラールに関係する消費の拡大は、現在のフランスにおいて有機商品にならぶ新たな経済価値をもちはじめており、両者を融合させたコンセプトをもったビジネスも登場している。他方で、これらが「宗教」ではなく「消費と経済」の問題であると見ている人々も多く、宗教と経済が日常生活においてどのような言葉で理解されていくのかを検討する必要がある。 また、政教分離のフランスといえども、都市空間においてはイスラームやアラブ地域との歴史的・今日的関係を反映させた空間が確実に広まっており(b)(c)、これらがフランスにおいてどのような位置を占めはじめているのか、フランスの土地の変容と人々の表現文化の関係を考える基礎資料を収集した。

菊地達也・2012年度海外出張報告
期間
2012年12月28日(金)〜2013年1月4日(金)
用務地
アンマン、イスタンブル
用務先
アンマン書店街、イスタンブル大学付近の古書街
目的・成果
これまで主にシリアにおいてシーア派少数派の文献を収集してきたが、同国が内戦状態に陥ったため、隣国であるヨルダンにおいてシーア派少数派に関する文献を収集した。収集をおこなったのは、アンマン市内ダウンタウンにあるAhliyya書店など、キング・フセイン・モスク付近のDar al-Fikr書店などであった。ドゥルーズ派、アラウィー派、イスマーイール派についてはヨルダン内のコミュニティがきわめて小さいか、あるいは存在していないため、あまり多くの成果は得られなかったが、アシュアリーやシャフラスターニーらの分派学書は入手することができた。アンマンの上記地域の書店は、シリア・ダマスカスの同規模の書店とは違いシーア派系の書籍をあまり所有していないが、スンナ派思想書は比較的豊富であり、そのほとんどがレバノンで印刷されたものであった。
イスタンブルにおいては、イスタンブル大学付近の古書街でイスラーム終末論に関わる写本絵画を収集した。その結果、ダッジャールやイエスが現れる写本絵画を数点入手することができた。これらの絵画はイスラーム芸術研究において紹介されることもあまりなく、今後の終末論研究においてはメシア論の転換点を示す傍証として大いに役立つであろう。

四戸潤弥・2012年度海外出張報告
期間
2013年1月28日(月)〜2月2日(土)
用務地
中国 西安市
用務先
・陝西師範大学北方民族研究センター
・西安市イスラーム教会
・西安市大清真寺、その他、同地区 その他2つの清真寺
・西安市イスラーム居住区実地調査
目的
東アジア儒教文化圏のイスラーム受容研究の一つとして、唐の都長安(現在の西安)のイスラーム状況の調査。
用務内容
1月28日(月)夕方、成田出発、翌朝午前3時西安着

1月29日(火)陝西師範大学 哈宝玉(Ho Bao Yu)西北民族研究センター教授と面談、調査、資料収集
*中国北方イスラーム状況及び、イスラーム学、法学教育及び留学状況、アホン(イマーム)育成制度などを中心に取材、同教授から論文、イスラーム資料を入手。
同教授はサウジアラビアのメディナ大学に留学していたので、アラビア語でインタビューできたが、一定間隔で中国語を使用する。
同教授はまた、日中戦争時の日本統治下のイスラーム政策、及び日本のイスラーム史と資料にも強い関心を示した。こちらが、日本人イスラーム教徒アフマド有賀(1868-1946)と高橋五郎の香欄経の草稿ノートをPDF化していること、『日本イスラーム史』の著者ムスタファ小村不二男氏と共に同著紹介で大使館訪問、通訳をしたことなどを話すと、強い関心を示し、今後も情報交換したい旨を述べた。同教授に、来日講演とワークショップを依頼、快諾を得、次年度招聘することになった。

1月30日(水)西安市大清真寺訪問(築1200年前)、午後の礼拝参加、信徒たちにインタビュー調査、資料収集
*1200年前に建立された大清真寺訪問、午後の礼拝参加、信徒たちと話す。大清真寺内(様式、内装、屋根の三日月シンボルなど)及び敷地内見学、大清真寺縁起資料収集。信徒でない観光客は礼拝堂内部に入ることができない。後、大清真寺を中心としたイスラーム居住区を見学、書店に寄り、『中穆斯林 習慣法研究』(466ページ)を購入。
*イマームのクルアーン朗誦の印象。北京牛街 大清真寺と比較し、同じように、畳みかけるようにしての朗誦、ズィクル(唱念)風の印象を得る。イスラーム教徒居住地区のせいか幼少時からのイスラーム教育が自然に行われている。また高校生くらいの少年たちが大清真寺の管理、運営の手伝いをしている。老人たちと指示に素直に従って動いている。

1月31日(木)西安市イスラーム教会訪問、馬貴平秘書長と面談、調査、資料収集
*西安イスラーム教徒の状況と、同教会の役割、政策などを中心に質問。また中国の他の地域のイスラーム協会および全国イスラーム協会との関係についても質問した。明日の金曜礼拝参加を約して訪問終了。同地区に9つある大清真寺の教派について聞く。サラフィー主義は2つで、中東地域に留学経験のあるアホン(イマーム)たちによって運営されている。

2月1日(金)午前、西安市イスラーム教会秘書長を訪問。馬秘書長が執筆した共著『西安宗教文化概覧』を恵存の形で、署名入りのものをいただく。また大清真寺の縁起俯瞰図をいただく。大清真寺最長老のアホンを紹介される。
馬秘書長が同地区の歴史的清真寺2つを案内、モスク訪問挨拶の礼拝を行う。責任者たちにモスク運営状況などの話を聞く。内部撮影。内壁のアラビア文字による装飾について説明を受ける。地元イスラーム信徒たちが参加、同秘書長も参加したとのこと。艶やかな色彩。
後、馬秘書長の案内で同イスラーム教徒居住地区のイスラーム教徒の商業活動(レストラン、土産物店など)を見学。イスラーム教徒の生活状況などを聞く。
午後1時半からの金曜礼拝に参加。中央アジア系のイスラーム教徒も礼拝に参加していた。

2月2日(土)早朝5時ホテルチェックアウト。帰国。
成果
変革期のイスラームが極めて現代的課題であると思わずにいられないのは、中東の政治的革命がエジプトとシリアにおいては政治的イスラームの色彩を帯びている現状と深く関係していることだが、同時に、また東アジア儒教文化圏の中国、韓国、日本のイスラームの研究が変革期のイスラームというテーマと深く結びついていると言えるのは、中国の改革開放政策定着後、中国イスラーム教徒のフィールド調査研究の成果が蓄積される中で、日中戦争時の日本軍と回族との関係の歴史的見直しを中国の回族イスラーム教徒の若手研究者が取組み初めていることから、日本のイスラーム研究者がこれまで手つかずのままにしてきたと言っても過言ではない戦前の日本のイスラーム政策資料の整理がこれから必ず求められる時期に入っているからである。つまり改革開放後の中国イスラーム教徒が、戦前の日本との関係の歴史の見直しをしているという点において、中国のイスラーム状況は日本にとって極めて現代的なイスラーム問題となりつつあると言えることが今回の実地調査で分かった。
今回の出張では、陝西師範大学北方民族研究センターの哈宝玉教授を訊ね、シルクロードから伝わったイスラームと中国イスラーム教徒の現状についてインタビューし、同教授から回族研究資料を入手した。
また西安イスラーム教会(大清真寺内)を訪問、馬秘書長にインタビューを行った。中国のイスラーム教派、および集団の現状と、改革開放後の中東留学生たちがサラフィー主義となって帰国、清真寺を中心に活動していることを聞くことができた。また西安市の旧市街にある大清真寺(9か所)を中心に4キロ四方のイスラーム教徒居住地区が形成されていること、さらに同地区が西安市の観光地となっており、イスラーム教徒たちは同地区で軒並み連なる形でレストランや土産店を開いて対応している状況を実地見学できた。また馬秘書長に大清寺やレストランなどを案内してもらい視察、聞き取り調査を行うことができた。
日本のイスラームは中国のイスラームのイスラーム理解の影響を受けていることは、日本人イスラーム教徒のオマル・三田了一や、イスラーム研究者の大川周明の日訳クルアーンからも明らかである。中東に留学した日本人イスラーム教徒たちがアラビア語イスラーム教書を自由に駆使できる現在の状況の中にあって、原音主義への方向が生まれていることから、中国のイスラーム教書の影響の評価は必要である。また多言語に堪能で、言語と思想の影響を重視していた井筒俊彦のイスラーム研究が、何ら関係がないと思われる儒教を視野に入れてなされていることの不思議さが、西安のイスラーム実地調査で個人的に納得がいった部分があった。それは中国の青島、北京、上海、そして台湾の高雄、台北の中国イスラーム清真寺実地調査でも感じなかったことである。
四戸潤弥・2013年度海外出張報告
期間
2013年11月16日(土)〜11月21日(木)
用務地
オーストリア、ウィーン
用務先
KAICIID Center in Vienne *KAICIID:King Abdullah bin Abdulaziz International Centre for Interreligious and Intercultural Dialogue, KAICIID,
目的
KAICIID 会議、ワークショップ参加(会場Hilton Stadtpark,)のため “The Image of the Other, is a multi-year initiative devoted to Interreligious and Intercultural Education in 2013.”
用務内容・成果
 サウジアラビア国王が設立した宗教、知識対話センタ−主催の会議が11月18日、19日の二日間にわたってウィーンで開催され、世界各国からの宗教界代表と宗教学、社会学の専門家たち約500人が参加した。
 両日とも基調講演とシンポジウムがあり、その後、各参加者は各自選択した20近くのワークショップに参加した。
 報告者が参加したワークショップは次の通り。

18日の次のワークショップに参加した。
Religion in Conflict and Peace Building
It has become clear that religious beliefs and practices can facilitate and legitimize peace as well as conflict. This session exchanges ideas and practices including mediation and peacebuilding, and asks whether and how intra- and interreligious dialogue has an impact-before, during, and after conflicts.
 組織段階論のプレゼンテーションがなされた。組織を同一宗教と読み替え、構成員が組織充実に努める、組織は強化され、他の組織(他の宗教)への関心、支援ができるようになる。どの段階にあるかは、各構成員が最優先する価値語で判断し、最高段階に至って後、他宗教との相互理解へと進む。参加者は15名程度で、自己の組織がどの段階にあるかで、グループ分けした後、同一グループで討議するプログラム。
 ギリシャからの参加者が、このプレゼンでの最高段階の価値語は国連憲章と同じでないかと質問したが、抽象的モデルで論じていけばそのような印象を持つだろう。また自己の属する宗教が他の宗教への関心を持つように向かわせるとするが、属する宗教が与える安全保障、保護、希望などの要素が含まれていないなどの指摘があった。宗教間の理解に対する社会学理論の適用といった内容。

19日の次のワークショップに参加した。
"Theological perspectives": How do the world's religions address 'Others'
 参加者は米国アリゾナ州の教会牧師、カナダの神学部学長、それにエジプトのコプト教会信徒などがキリスト教、インド人で米国で教鞭を執っているヒンズー教徒の教授、シリア出身でアルジェリアの大学のイスラーム教徒の教授などが参加した。
 最初に他者(他宗教)への関心を促すような指導はしていないと申し訳なさそうな発言があってから開始、各々意見を発言することになったが、終わらない内に、インドからの参加者が、神学とは何か、ヒンズー教では宗教人としての心と態度を陶冶するなどと抽象的発言をして論議の流れがずれる。引き戻して、神学の定義ではなく、そこで神学として教えられていることが神学内容であること、一神教は選択する信仰であり、そうした点はインドとは違っていることを確認して、再出発、その後、エジプトからの参加者が、イスラーム教徒が行っている排除の論理を指摘するだけで、具体的事例のない抽象論になる。排除したい気持ちと、排除の暴力の実行の間にあるものは何か、他者排除の心情を力や非難によって矯正するのではなく、行動へ至るものは何かに焦点を当てる。米国人牧師が、聖書者の説教や、ガイダンスがそうさせると発言する。
 言うだけになりがちな、このようなワークショップの軌道修正を行いながら、異なる宗教、信仰者の間で、聖職者(信徒たちが尊敬する)の役割の重要性の指摘に全員で至ったことは有意義であったように思う。
期間
2013年11月21日(木)〜11月25日(月)
用務地
オマーン、マスカット
用務先
ドイツ系工科大学German Univeristy of Technology in Oman
オマーン宗教省
オマーン国王直属高等文化科学センター
カーブース国王大学、及び、同大学オマーン文化センター
イスラーム法学高等学院
オマーン国営テレビ・ラジオ放送
目的
イバード派の状況についての意見交換、調査など
用務内容・成果
 11月21日午後11時50分関空発の便でドバイ経由オマーンに向かう。ドバイで3時間程トランジットのため過ごし、マスカットには22日午後に到着した。

11月22日(金)
 同国宗教省(Minister of Awqaf and Religious Affairs)大臣のSheikh Abdulla Bin Mohammed Al Salmi 博士を夕方に御自宅に訪問した。金曜日(礼拝日)であったために御自宅に招待してくださった。ドイツに留学し、その時に、私財で、母国にドイツ系私立工科大学をつくろうと決意し、留学先の先生方をリクルートした。資金はあるのか、予算は幾らかと聞かれた際、大臣は、お金のことは不自由させないと答えたとのこと。
 歓談では倫理、道徳、価値観を通じて西欧との対話が促進できると強く語っておられたのが印象的であった。具体的には、婚姻した妻と、内縁の妻を区別するが、実質は同じあるという部分を持っている、それを分ける倫理、道徳、価値観はどのようなものかと述べられたが、それは倫理、道徳の深い海溝に在るかのような倫理、道徳の根本を揺さぶる類いのものである。いとも簡単に倫理、道徳を構造的に見る視点はイバード派に固有で普通のものなのだろうか。大臣は、移り変わる法ではなく、根源的に倫理、道徳を問いかけていた。
 大臣はまたクルアーンの中の倫理、道徳テーマについてドイツ、英国の学者たちの間で対話を進めていると話した、どの程度なのか?具体的には? すると大臣はまとめた本を、これまで数冊出版したと話した。
 今年、日本の最高裁の非嫡子相続権についての判決があったことを伝えた。

 この日は休日であった。金曜日と土曜日が休日なのである。金曜日は集団礼拝の日で、イスラーム教徒にとって休日だが、ウィークエンドになっていた。そして土曜日が休日となった理由は欧米との休日を摺り合わせたためである。

11月23日(土)
 午前10時 昨日の宗教大臣一族が創設したドイツ系工科大学German Univeristy of Technology in Omanを訪問。カーブース国王訪問の写真が掲げてあった。大学案内、大学の歴史のプレゼンを見た後、宗教関係者10数名を前にプレゼンテーションと質疑応答を行った。
 主としてイバード派に対する日本人の視点からの関心がどのように展開されるかについて説明した。

11月24日(土)
 午前9時頃、オマーン国王直属高等文化科学センター Sultan Qaboos Higher Centre of Planning for Culture & Studies のMohamed Amur Said Al-Shidhani長官を表敬訪問。長官と歓談。長官は米国を始めとして日本、その他の20数カ国の大学にカーブース国王講座設置プロジェクトを推進している。また2014年2月に設置大学を集めてシンポジウムを開くとのことだった。
 午前11時頃 カーブース国王大学訪問、同大学付属オマーン文化センターを訪問。ムフスィン・ビン・フムード・アルキンディー(Dr.Mohsin Humood AL-Kindi)センター長と歓談。同センターでは、オマーン文化に関するシンポジウムを開催し、中国やインドからの参加者も加わったとのことであった。案内の人によれば、同センター長は、今年度のカーブース国王賞受賞の候補であるとこと。同大学視察。その後、ハマド・ビン・スライマン・アッサラミー(Dr.Hamad Sulaiman Al-Salmi)副学長と歓談。日本の学生との交流などが主たる話題であった。

 午後12時頃 イスラーム法学高等学院訪問。
 イーサ・ビン・ユーセフ・アルブーサィーディー学院長によれば、学士コース(4年)、夜間コース、夜間婦人コースなどを設置している。卒論では、ザーヒル派、イバード派、イエメンのザイド派、それに四大法学派の全てを比較して書くことを課している、また今年からインターネット講座が開始されると語った。ザーヒル派は消滅したのではと言うと、検討すべきものが多く有益であるとの答え。
歓談には学院長、教員の方々12、3名が参加したが、その中の4、5名は昨日工科大学でのプレゼンにいた先生方々だった。

 午後2時頃 オマーン国営テレビを訪問。アブドッラー・ビン・ナースィル・アルハッラスィー(Dr.Abdullah Al-Harrasi)総裁と歓談。来日の経験があり、栃木を訪問した、日本ではイスラーム信仰はどうなのかと話が広がる。隣人の宗教、隣家の宗教には干渉しないで自由である、遺言の遺留分などの規定はイスラームと同じであると答えた。同総裁は、10年来のプロジェクトであるオマーン百科事典の編纂責任者であるが、それが最近完成した。初版2000部でレバノンで印刷したと語り、初版数巻を閲覧させてくれた。

 午後8時頃、マスカット発、ドバイへ。ドバイでトランジット5時間。ドバイ発、帰国の途へ。

11月25日16時40分、 関空着。

後書き:2010年のアラブの春以降、アラブ諸国の国家の枠組みはイスラーム国際過激派や、サラフィー主義者たちの財政支援などとの関係から、まったく新しい状況を呈している。そしてイスラームが政治化している。オマーンでもアラブの春は他人事ではなかった。カーブース国王は公務員の給料アップなど不満の解消の政策を実施して対応した。
期間
2014年1月30日(木)〜2014年2月8日(土)
用務地
オマーン
用務先
Sultan Qaboos Higher Centre for Culture and Science
目的
Human Rapprochement and Harmony Week - Third - The Scientific Forum, visit to the South Batinah Governorate and the South Eastern Governorate( meeting with governors of them), and meeting with 4 ministers (minister of Information, minister of Higher Education, minster responsible for Foreign Affairs, and Sultan Qaboos Adviser for Cultural Affairs)
用務内容・成果
 国連の要請を受け、スルターン・カーブース(国王)が設立したフォーラムの第3 回目会議。14カ国(米国、中国、日本、ロシア、ブルガリア、オーストリア、ドイツ、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、カタール、イラク、レバノン、オマーン)から参加。 10:00a.m-20:00p.m. 3セッションの会議予定であったが、昼食時間を短縮して10:00a.m.-19:00p.m.まで行われた。発表は第1セッションが基調発表で、H.E.Habib bin Mohammad Al-Reiyam、Secretary General of Sulatn Qaboos Higher Centre for Culture and Science、Sayyd Badar bin Hamad Al-Busaidi、Secretary General of the Ministry of Foreign Affairs,Prof.James Zoghbi,Director of the American -Arab Institute ら3 名による和解と調和のための政治支援をテーマとする発表、第2 セッションが学者、思想家の政治的役割がテーマ、第3 セッションが和解と調和のための政治的実践と試みをテーマとして各セッション5 名の発表があり、質疑応答が行われた。印象に残ったのはブルガリアのソフィア大学のP.Makaraieve教授が行った発表で、異文化、異なる宗教と接触した人間の内部に起こる、自己の属する文化、宗教との内的葛藤を視点に据えたもの、そしてドイツのマールブルグ・フリップ大学中東研究所所長A.Fuess 教授が発表した移民イスラーム教徒とマールブルグ住民の市自治政治レベルでの宗教、異文化理解、宗教施設建設維持での合意形成の試みの実際についての報告であった。 その他は、西欧との政治、経済、文化の観点からのものだったが、論の根拠を国連憲章や国連人権宣言に求めたものであった。オマーンの地方文化視察が2 日間あり、南バーティナ地方の豊かな鉱物資源、東南地方では(アフリカ領、インド領を持っていた)海洋国家オマーンを造船所見学などを通じて、オマーン文化と歴史を知ることができた。

辻上奈美江・海外出張報告
期間
2012年12月31日(月)〜2013年1月8日(火)
用務地・用務先
エジプト
目的・成果
長期間にわたる権威主義が民衆蜂起によって崩壊したり危機に陥ったりした「アラブの春」はアラブ諸国の政治的転換を迫る出来事となった。とりわけ、チュニジアおよびエジプトは、「アラブの春」の早い段階で政権が崩壊した。チュニジアでは、ベンアリ大統領が国外脱出した2011年1月17日に暫定政権が発足、2011年10月には選挙を経て新政権が発足した。エジプトにおいても2012年6月に新政権への移行を遂げた。早期に新政権への移行を遂げたチュニジアおよびエジプトでは、革命時に女性は抗議行動において重要な役割を果たしたのと同時に、暴行の被害者ともなった。また革命後においては、両国はいくつかの点において「アラブの春」のゆくえを知るための重要な鍵を握っている。
革命時には、抗議行動を主導したり参加した女性抗議者らは、権威主義と家父長制という少なくともふたつの障壁を乗り越える功績を残した。しかし、たとえばエジプトではデモ参加者の「処女検査」が行われたり、アメリカのテレビ局の女性レポーターが暴行を受けたりもした。革命達成の高揚時に過度な男性性が発露した例と言えるだろう。
革命後のチュニジアおよびエジプトでは、政治的混乱や経済の停滞を経験することになる。同時にムスリム同胞団の台頭とサラフィー主義の出現などの現象が起きている。イスラミスト勢力の出現によって、女性の行動規範にはどのような変化が起きるのか。また、女性は抗議行動において少なからず役割を果たしたが、イスラミスト新政権において女性は政治的・経済的な地位向上を遂げることができただろうか。同時に、経済の停滞と高い失業率によって、男女の経済的地位はどのように変化するのか。
これらの疑問を解明するため、本科研費研究ではとりわけエジプトに焦点を当てて現地調査を行った。現地調査では、女性検察官、女性活動家、女性政党員などを中心に、政治や司法、そして経済における女性の地位や権利がどのように変化したのか聞き取り調査を行った。

根本和幸・海外出張報告
期間
2012年5月25日(金)〜2012年6月3日(日) (8泊10日)
用務地
オランダ(アムステルダム/デン・ハーグ)
用務先
国際司法裁判所、アムステルダム大学、ライデン大学
目的概要
国際司法裁判所(ハーグ)での「紛争後の平和構築に関する国際法に関する会議(Jus Post Bellum Conference)への参加および研究調査(アムステルダム大学・ライデン大学)
目的
本科研「変革期のイスラーム社会における宗教の新たな課題と役割に関する調査・研究」という研究課題の下で、「民衆蜂起に対する武力行使に関する国際法的検討」を中心に研究している。とりわけ、エジプトやイエメン、リビア、そして現在進行形のシリアといったイスラーム社会における民衆蜂起に焦点を合わせて検討を行っている。そのような複数の個別事例を国際法の観点から検討する際に最低限必要な分析視座は、以下の3つであると考えられ、この4年間はこれらの点を意識して研究活動を行う予定である。
・いわゆる「アラブの春」過程での主権国家内における民衆蜂起の弾圧に対する武力行使の法的検討
・「保護する責任(Responsibility to Protect/R2P)」概念の国際法上の地位と「アラブの春」への適用関係
・民衆蜂起に対する国内法上の実力行使(警察権および公権力の行使)の態様に関する法的検討
そこで、まず、初年度である2012年度は、2011年のリビアのカダフィ政権の転覆及びその後のカダフィ大佐一族への国際刑事裁判所による逮捕状の発給、諸外国による武力行使を受けて、「その後の(post)」国家建設を含めた国際法的な研究を行う学術会議に出席した。
成果
これまでの国際法学において、武力行使に関する国際法の枠組みは、戦争(武力行使)開始の合法性を評価する法(jus ad bellum/ユス・アド・ベルム)と「戦争(武力行使)中の行使態様の合法性を評価する法(jus in bello/ユス・イン・ベロ)」とに二分されて理解されてきており、確立しているといってよい。しかしながら、現在では、「戦争(武力行使)の終結およびその後の平和構築における合法性を評価する法(jus post bellum/ユス・ポスト・ベルム)」という概念が提唱され、従来の二分法では不十分であるという主張が展開されてきている。
本科研の課題との関係では、例えばリビアのような民衆蜂起を弾圧する領域国に対して、第三国が行う軍事介入の合法性が問題となる。これは今後のシリア情勢を検討するうえでも不可欠の視点であることは言うまでもない。リビアは2012年8月8日にそれまでの国民暫定評議会(NTC)から制憲議会に権限が委譲され、同年11月14日には選挙による内閣が発足していることからも、紛争が終結し、新政府への移行期にあたる。それでもなお、9月11日のリビア東部のベンガジにある米国公館に対する襲撃という国際法に違反する事態が生じていることからも政情は不安定であり、これらの合法性の問題が残る。また、逮捕状が発出されているカダフィ一族の訴追問題も未解決であり、正義(justice)が達成されていない状況である。そのことからも明らかなように、一見して過度に理論的な部分ではあるが、イスラーム社会における民衆蜂起を精確に理解するためには、極めて重要な点となっている。それゆえ、このjus post bellum概念の規範内容の明確化と国際法上の位置づけが必要となる。
この会議においては、国際法分野ではCarsten Stahnライデン大学教授やInger Osterdahlウプサラ大学教授、Dieter Fleck元ドイツ連邦国防省国際協定政策局長、Robert Cryerバーミンガム大学教授、Gregory Foxウェイン州立大学教授、Cymie Payneラトガーズ大学教授、Terry Gillアムステルダム大学教授、Jann Kleffnerスウェーデン防衛大学校准教授らと、詳細に意見交換を行うことができた。また、Larry Mayヴァンダービルト大学教授からは哲学や政治学的観点からjus post bellum概念の必要性を伺うことができた。その際、インタビューにとどまらず、国際法学から批判的に質疑を行うことができ貴重な機会を得た。
その過程で、従来の枠組みを揺るがすjus post bellum概念が生成途上の生起しつつある概念であり、イスラーム社会における現在の民衆蜂起や内戦という現象面をとらえる場合には必要な視点であることは明白である。
しかし、第一に、ここでの”jus(=法)”という文言が含意するものとその射程が確定しないという問題がある。第二に、仮にjus post bellumが「法規範」へと成熟した場合でも、jus ad bellumjus in belloとの三つの法体系間の相互関係が問題となる。この点は、1996年の核兵器使用威嚇の合法性事件をはじめとした一連の国際司法裁判所(ICJ)判例においてもjus ad bellumjus in belloとの関係性に関する解釈適用が問題になり、学説においても論争となったことからも、今後この研究の中で取り組まなくてはならない重要な課題であることが明らかになった。
期間
2013年2月19日(火)〜2013年2月25日(月) (5泊7日)
用務地
ポルトガル(ポルト)
用務先
ミーニョ大学
目的概要
EUとポルトガルのミーニョ大学共催の学術会議“Thinking Out of the Box: Devising New European Policies to Face the Arab Spring”および各種研究会への出席。
目的
2011年のリビア空爆は、(重大な問題を孕みながらも)国際連合安全保障理事会により武力行使が授権されていたという状況であるにもかかわらず、米国がリーダーシップをとることはなく、むしろNATO(北大西洋条約機構)やヨーロッパ諸国による軍事作戦を後方から支援する形をとった。このような米国の姿勢については、これまでの介入政策との比較で検討に値するが、そうであるからこそ、EU、NATO、そしてヨーロッパ諸国及び中東諸国が、「アラブの春」にどのような政策にもとづいて対処してきたのかを理解することも重要となっている。
そこで、この研究課題の遂行にあたり、アラブ諸国および民主化に対するこれまでのEUの政策判断と枠組みがいかなるもので、とりわけEU諸国の「アラブの春」への対応がどのようなものであるのかという点について理解するために、地政学、国際政治経済学、民族学、宗教学、国際法学というさまざまな視点から検討する機会を提供するこの学術会議に参加した。
研究会では、国際法学のテーマである「保護する責任」を扱うセッションを中心に、参加した研究者と意見交換をするとともに、議論を行った。なお、前回の出張におけるjus post bellum概念を構成する要素の一部が「保護する責任」概念であるという有力な見解もあったことから、その評価・分析を行うことも今回の出張目的のひとつであった。そのため、前回のオランダと今回のポルトガルの2回の出張は不可分の関係にあり一貫した目的を帯びたものである。
成果
「アラブの春」という事象を取り巻く状況に関して、「保護する責任」原則という武力行使に関する国際法学および国際政治学の観点から、国際政治および国際法研究者らと意見交換を行うとともに議論をする機会を得た。
「保護する責任」概念は、2000年に入り国際連合が取り組む重要な課題であり、国際政治学および国際法学においても、近年、研究対象となっている。今回、議論した研究者の間でも、2つの点で保護する責任に関して認識の差が大きいことが明らかになった。第一に、その規範性についてである。たとえば、2月21日のAna Rita Azevedo(ミーニョ大学)による発表は「保護する責任」の規範性を論じることなくリビアの政変と空爆を説明しているため、「保護する責任の機能」が明らかではなかった。つまり、保護する責任が国際社会における法規則であるという前提が措定されている。
たしかに、「保護する責任」に関して、オーストラリア国立大学のRamesh Thakurは「安保理決議1973が『保護する責任』原則(the doctrine of “responsibility to protect”(R2P))の軍事的な最初の実施(implementation)事例である」とし、「国際社会がこの責任を回避したとしたら、リビアが保護する責任の墓場となりえたのである」と論じたうえで、「保護する責任は実行可能な一規範として(as an actionable norm)ほとんど結晶化(solidified)しつつある」とさえ主張する。また、国連事務総長のBan Ki-Moonも「(リビア空爆を加盟国に容認した)安保理決議1973は、政府による自国の文民に対して行われる暴力から保護する責任を実施するという国際社会の決定を、明確かつ疑いの余地なく確認し」、「保護する責任は現実の検証を経て、認められた」との認識を表明している。
しかしながら、保護する責任が適用に耐えうる法規則として成立しているかどうかは、国際実践を詳細に検討したうえで評価されるものであるはずである(国連事務総長の国際法解釈権限と国際法の成立認定権限への疑問)。同時に、リビア事例においては、現在の国際法が前提とする国連憲章体制と保護する責任概念との整合性の問題も提起されるのである。
第二に、保護する責任概念を(仮に同概念が適用に耐えうるものであるとする場合)紛争プロセスのどの段階で適用するかという問題である。2月22日のAssuncao Vale Pereiraミーニョ大学教授は「保護する責任」をヨーロッパ諸国による軍事的介入の正当化根拠という位置づけから検討を開始する。これはjus ad bellumという段階における武力行使禁止の例外としてのいわゆる「人道的介入」の観点から保護する責任を論じるものである。一方で、保護する責任におけるローカルアクターの役割を論じ、同じパネルを担ったコロンビア・ロー・スクールのBart M. J. Szewczykの見解は、どのレベルでの保護する責任概念を前提としているのかが明示されずに混同されていた。その区別次第では同概念の主体はローカルアクターではなく主権国家にもなりうるため、同氏の見解の妥当性は失われることになる。このように、保護する責任概念の国際法上の位置づけ、ならびに適用の時間的レベルの検討が重要であることが明らかになるとともに、今後の研究の方向性を見出すことができた。

以上、このオランダ出張報告書およびポルトガル出張報告書では、「壊す」視点からのみ批判的に言及してきたが、上記のような様々な見解を踏まえたうえで、イスラーム社会での民衆蜂起に関して「保護する責任」概念がどのように機能するのかについては、現在執筆中の別稿にて論じる予定である。

宮治 美江子・2013年度海外出張報告
期間
201 年11月14日(木)〜11月26日(火)
用務地
チュニジア、フランス
用務先
第14 回チュニジア‐日本 文化・科学・技術学術会議(TJASSST)(ハマメット)、チュニス大学経済社会研究所CERES(チュニス)、アラブ世界研究所(パリ)、国際移住情報センターCIEMI(パリ)
目的・成果
1)主要出張先のチュニジア(ハマメット市)では、チュニジア・日本―文化・科学・学術会議の人文・社会セッションに出席し、第1セッションの司会と第3 セッションで報告「アルジェリアから見たチュニジア革命」を行うとともに、出席したチュニジア側研究者たちと懇談、情報交換を行った。 前回この会議に出席したのは、2009 年であったが、その時に比べて、会議の運営も筑波大学の北アフリカセンターの積極的な関与によりスムーズになり、チュニジアの革命後ということもあってか経費のかかる大袈裟なレセプションはなく、人文社会系のセッションもチュニジア側の発表者の人数が増え、発表の質も相対的に向上したと感じた。

2)会議後、首都チュニス市に戻り、チュニス大学経済社会研究所CERES の新しい所長のモハメッド・アバザ博士を訪問、現科研プロジェクトとの交流の可能性などについて話合った。同研究所は、歴史のある研究所であり、前所長のハッサン・エル=アナビ所長は、2010 年に東京国際大学で開催された日本学術振興会のジョイント・セミナー「チュニジアと日本における異文化間対話:アイデンティティと発展への挑戦」で、チュニジア側の代表者を務めて頂いた。 その後、チュニス大学の名誉教授であり、上記セミナーでもコメンテーターをして下さった、ムニーラ・ラマディ・シャプトー教授に会い、チュニジア革命後の新政権下の女性の権利・地位や、女性たちの活発な諸活動についての貴重な情報を得、同教授の来年度のこのプロジェクトにおける講演の可能性などについて話合った。彼女は今年は、ハーバード大学など米国の2 大学からの招待を受け、中東世界でも、一夫多妻の禁止や女性の社会進出など、最も女性の人権が護られて来たチュニジアの女性の現在の状況について講演をするという。

3)次の出張先のフランスのパリにおいては、改装されたアラブ世界研究所を訪れ、新しい展示場を見学するとともに、新しい資料や本などを購入した。次に国際移住情報センターCIEMI を訪問、新センター長のルカ・マラン氏と面談し、同研究センターの研究誌の最新号の寄贈を受けると共に、同誌を含む同センターの所蔵図書や資料の検索を図書室で行った。また、古くから中東・アフリカなどの図書を専門に扱い、出版・研究会活動なども活発に行うアルマッタン書店で、マグリブ関連の図書の検索・購入を行った。

吉田京子・海外出張報告
期間
2012年8月26日(日)〜9月2日(日)
用務地
ロンドン(イギリス)
用務先
・The School of Oriental and African Studies (University of London)
・British Library
目的
現在行っている論文完成のための資料確認、資料収集。
成果
イスラームの夢に関する論考に関わる以下の書籍、写本が日本では入手できなかったため、ロンドンの図書館の資料を閲覧、検索した。
・Awad Rita, Adabuna al-hadith bayna al-ru’ya wa-al-ta`bir
・Mahmud Sualyman Yaqut, al-Lughat wa-al-ru`ya wa-al-hulm
・Abd Allah Abd al-Qadir, al-Masrah fi-al-imarat
・Karbasi, al-Ru`ya mushahadat wa-al-ta`wil
・Salimah Jan Zaki, al-Ru`ya
・Mustafa Namir Da`mas, al-Ru`ya al-Hashimiyah lil-ta`lim
・Abd al-Aziz Sharaf, al-Ru`ya al-ibda`iyah fi-shi`r Hasan Abd Allah al-Qurashi
・Tabarsi, Dar al-Salam fi-ma yata`allaq bi-al-ru`yaw a-al-manam
・Salih al-Ta`i, Falsafat al-ru`ya fi-al-islam
・Ibn Sirin, Hadhah Kitab al-ma`ruf bi-ta`bir al-ru`ya   他

夢関係の文献は閲覧してみなければ、それが論考であるのか、辞典であるのか、全くのコピーであるのか、オリジナルであるのか判明しない。そのため、多くの刊本(または写本)を網羅的にチェックすることのできる、たくさんの資料を抱えた図書館での調査が必要であった。 夢議論の文献は多くがそのイスラーム性とアカデミックなものであるかどうかが疑問視されるものが多いが、今回の調査によって、伝統的な夢議論は一定の原典にそって展開されているということが判明した。拙稿「イスラームの夢議論」をリトン社の『宗教史学叢書』シリーズに掲載予定である。

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